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【 うるま市宮城島 】離島では珍しい気質「人に半歩寄る」

【 うるま市宮城島 】離島では珍しい気質「人に半歩寄る」

「これ、私の頭にちょうどいいんです」
うるま市の移住コーディネーターという石川優子さんは、クバ笠をかぶり、すでに汗をかきかき現れました。
乾燥させたクバ(びろう)の葉を編んでつくられるクバ笠は、畑人(ハルサー)と海人(うみんちゅ)用があり、島ごとにも形状が少しずつ異なります。

石川さんは山原(やんばる)と呼ばれる沖縄本島北部の生まれですが、県外での生活を経て、今はうるま市の東の先端・伊計島で暮らしています。
その隣の宮城島に惚れて、熱を帯びたアクションをしているこの頃は、伊計島のおじぃたちから「あいつは宮城島の女になってしまった」とからかわれているとか。

そんな石川さんに、宮城島を案内してもらいました。

この記事を書いているわたしは、うるま市から見て西、沖縄本島の読谷村で暮らしていますが、うるまの5つの離島のうち、宮城島は唯一、これまで素通りしてしまっていた島でした。
だからよけいに驚いたのは、「坂の途中の沖縄」という情景が島に広がっていたから。
高台から瓦屋の家々を見渡せる場所は、沖縄では竹富島を筆頭に数ありますが、坂の途中に昔からの集落が残っている地域を他に知りません。

この後、取材チームで5つの島のうち暮らすならどこ? という話になった時、わたしが宮城島と答えたのを自分なりに分析すると、原風景を田舎にもっているからなのか。
あるいは田舎のおばあちゃんっ子、おじぃちゃんっ子だった人には、ゆたかな記憶が引き出される風景であり、石川さんの語り口だったのです。「宮城島は車が通れないガタゴト道が多いんですけど、おかげでゆっくり歩ける場所です」と石川さん。

 

島のシーサーが独特なのは、古い家が残っているということ。
現在の沖縄の街には陶製(土)のシーサーがあふれていますが、もともと屋根獅子(シーサー)は、瓦葺き職人や大工が、最後に残った瓦と漆喰でつくったのがはじまりといわれています。
瓦葺き職人や大工の数だけ、ユーモラスな顔をしたシーサーが生まれました。

 

関東から移住してきた女性がリフォーム中の家です。
「島の年配の人たちが手伝っています。彼らは便利なように作ってあげたくて、新しいものを入れようとしたんですが、彼女は板を焼いてみたりとか、わざわざ面倒なつくりの土間にすることを希望して、すでに一年くらいかかっています(笑)。今日は台風対策で誰もいないんですけど、いつもここにおじぃが2、3人。自分の好きな時間に手伝っています」

 

石川さんが「何かあるといつもここに来る」という高台を教えてくれました。
いつもは80代の現役の海人(うみんちゅ)のおじぃが座って、魚の様子を眺めているそう。
昔は、毛遊び(もうあしび)といって、月夜の晩に島の若い男女が唄い、踊り、出会う場所でもありました。

 

現役の郵便局。年に一度、カンヒザクラの色に包まれます。

 

島の伝統行事は必ずここから始まります。珍しいほどの高さがある福木のほうから、どんなに暑い日でも心地いい風が吹くそう。
沖縄では数えで13歳になると女の子のお祝いがありますが、宮城島は15のお祝いで男の子が対象。
「ここで空手の型を披露し、先祖のおかげ一人前になりました、ありがとうございますと報告します。15歳の子どもたちがもういなかったり、いてもやらなかったりするなかで、島には住んでないけど、おじぃがここの出身でそういうのを大事にして、島外からやりに来る人がいます。保存会があるわけではなくて、昔のやり方を残そうとして残ってるというよりは、自然に残っています」

 

宮城島は離島では珍しく水に恵まれた島。
島にはカー(井泉)がたくさんあり、旧正月は父方の血族でつながる門中(むんちゅう)ごとに、カーをまわり、感謝と祈願をします。

 

カラムシ(苧麻)は「ヤギのごはんです」
くっつくので、昔の子どもはブローチなどにして遊んだのでしょう。

 

「これ何だと思いますか。豚を飼っているおうちにはだいたいあったんです」
ーーーー豚が出入りする?
「出入りする豚は、種付け用の大きいオス豚。ここから出して、ノーリードで、棒でお尻を叩きながら、あっちこっちのおうちに種付けに行くんです。すごい貫禄らしいんですよ。島のあっちこっちを渡り歩いて。その風景を聞いただけですごく感動して!」
愉快そうに石川さんは話します。

 

沖縄の看板は壁に直接描かれたものが多いですが、こんな風に文字が立体的になっているのは珍しく、カメラマンがよく撮影の場として選ぶという商店跡。
「建物といい、規模といい、場所といい、いろんな拠点として活用できそうだなと思ってます。昼の3時くらいになると、プランターとプランターの間に(笑)おばぁたちが並んで座るんですよ」

 

フィンランド人の科学者で、43歳の女性が、リフォーム中という家も見せてもらいました。
仕事場は世界各地の大学だったという彼女は、10年前から宮城島と関わりがあり、どうしても島に住みたいとOIST(沖縄科学技術大学院大学)に就職。
木がうっそうとしていて、中にもものがあふれていた状態から、約一年。大工さんなしで友人3人と仕事の合間にこつこつ修復しています。

 

なんのあてもなく沖縄に家探しに来て、5年前に宮城島に移住した田渕さん一家。
知人から「宮城島で一軒家が空くそうよ」と連絡をもらい、来てみると、はじめましてだというのに島の人が「他にも家があるかもしれない」と公民館・児童館に連れて行ってくれ、総出であちらこちらに電話。何かに導かれるように家が決まったそう。
奈良では将也さんは自然農園で働き、智予(ともよ)さんは助産師でした。

何でも自らの手で生み出そうとしながら暮らしている二人は、友人たちから「プロの生活者」と言われるほど。
「特定の何かを生活から切り離して大きく商品化してしまうと、新たな消費者を生み出しながら、一方で自分たちが生活の中で大切にしたいこともきっと大切にできなくなってしまう」
という田渕さんの言葉が、宮城島の情景に重なりました。

 

20代半ば、親の願いを受けて「いやいやUターン」し、沖縄で、宮城島で、時を過ごし、収入が減るのを承知で宮城区の自治会長になったのは、島にお世話になったから、という名護徹さん。

沖縄ではよく畑が見つからない話を聞きますが、島で畑人になりたい人が来たら、貸せる土地はあるのですか?
「あります。農業でも、民芸でも、自分で事業をできるかたが来てくれたらできる限りのバックアップはしたい」と言い、若い人が畑人として収入を得られるように、ニンニク(島ニンニクではなく)やイチゴの試験栽培をするなど、働く場づくりを試みています。

「ここの地域の人は相手に半歩歩み寄るし、向こうから寄ってきたらまた寄る。離島では珍しい気質です。でも最初から2歩も3歩も入っていかない。そこが一番大事かな」

 

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